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2007年9月

外国人でも通信制大学に入れるの?

外国人でも通信制大学に入れるの?

 一般論でまとめるのは危険かもしれませんが、私が把握しているところでは、外国籍であることを理由に、入学資格が無いとする通信制大学は無いようです。大学によっては、国籍を記入することを前提とされていますし。要は、入学資格があるかどうか、というところですよね。

 ただし、例えばS大学の場合、以下のような規定があります。

 本学では、日本語の教材を用いた学習、日本語によるスクーリング授業以外は開講していません。
 また、在留資格(留学ビザ)は通信教育部では取得できません。

ということですから、別の滞在資格を持っていることが必要になります。

 教職学院では、私自身が在日外国人研究をやっていたということもあり、積極的に、外国籍の方々の学習のサポートをしています。
 日本で生活をしていくとなると、日本の大学を卒業したい、という気持ちを持たれることもあると思います。
 でも、日本で大学を卒業することはそれほど易しいことではありません。
 通信制大学も、書類審査で入学できても、修了できるかどうかは、ほんと、大変です。
 そういった方々のサポートを積極的に行っておりますので、お気軽にお問い合わせくださいね。

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小学校の先生になりたい!

 小学校の先生になりたい、という方が増えているのでしょうか。
 私の周りでは、本当にここ数年、「先生になりたい」という人が急増しているんです。
 団塊の世代と言われている人々の大量退職、そして大量採用を控え、教員養成系の募集人員が増加していることから、志願者が増えたのではないかと思われます。
 教員採用試験の倍率は、学校種・地域によっては、かなり低倍率になってきています。がんばれば合格できる、教師になるのなら、今がチャンスではないでしょうか。
 また、教員採用試験の受験資格の年齢制限を撤廃する自治体も増えています。教師になることを諦めていた方にも、十分チャンスがあります。今から、教員免許を持っていない方、今から取得したとしても、間に合います。
 先生になりたいというあなたの夢を実現させませんか。

 

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作文が書けない!

 ここ数年、学生さんを教えていて、「論文が書けない」と言われることが多くなってきたように感じます。作文教育(生活綴方教育)、言葉、言語、文学に関心を持っている私としては、指導に力を入れなくちゃと思います。(笑)。やっぱり、作文、言葉の教育は大切だと思いますから。

 2005年12月にOECDのPISA調査の結果が発表されました。2000年は8位だった日本の子どもの「読解リテラシー」は14位にまで低下しています。この調査の結果は、順位にとどまらず、質的に日本の子どもの学力を問うものであります。このことはまた、機会を改めて書きたいと思いますが、本当に深刻なんですよ!

 また、2006年2月に発表された、次期学習指導要領についての中央教育審議会の教育課程部会の審議経過報告でも、「国語力の育成」が重視されています。

 ちょっと余談ですが、この報告については、内田樹さんのブログ「言葉の力」 が非常に面白いと思います。言葉を「道具」としか考えない言語観を批判しています。言葉を畏怖すること、言葉の現実変成力。私は、内田樹さんに大きく影響を受けながら、「詩の言葉の持つ力」という論考を書いたことがありますので、大いに共感したものです。

 さて、本題に戻って。
 では、論文を書くためにどんな学習が大切なのでしょうか。

 まず一番最初にやっておきたいなあと思うことは、たくさん「読む」ことです。

 論文は「書き方」を習えば書けるようになるものではありません。

 私たちは、これまで私たちが聞いてきた、たくさんのフレーズから取捨選択して、切り貼りをして、言葉を発しています。「私」が語っていることの中で、自分自身が考えたこと、全くの「オリジナル」な部分は、ほんのわずかでしかありません(今こうして私が書いていることも、多くは、内田樹や丸山圭三郎、ソシュール、R.バルトの「受け売り」です)。

 けれども、そのたくさんの言葉のストックの中から、何を選ぶのか、という点において、十分な「オリジナリティ」を発揮することができるのです。

 だから、「論文が書けない」と言う方には、まずは、たくさんの文章を読んでほしいと思うのです。話し言葉と書き言葉は、全くの別物です。たくさんおしゃべりができる方でも、「話すように書く」ことは難しいものですから。

 読むものは、何でもいいと思います。

 まずは、読むことから始めてみてはいかがでしょうか。

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教員採用試験の倍率

 現在、公立学校の教員採用試験の競争率は低下傾向にあり、「今なら、先生になれる」時代がやってきたように思います。けれど、それは、全国的な状況というわけではなく、地域や学校種によります。
 採用者数が多く、競争率が低いのは、文部省の「各県別受験者数、採用者数、競争率(平成17年度)」によると、東京都、大阪府といった大都市圏です。
 学校種では、小学校の競争率が低下しています。東京都の小学校では、3,491人の受験者のうち、1,425人が採用されているんですよ。競争率は2倍ちょっとです。凄いと思いません?
 一時は、教員採用試験の倍率は、10倍を超えるのが当たり前、10年近く臨採を勤め、年齢制限ぎりぎりで合格するというのも、珍しくありませんでした。それに比べると、昨今では、地域を選んで、しっかり勉強をしていれば、合格することも可能になってきていると思います。
 団塊の世代と言われる世代が大量に退職を迎えることから、今後、競争率はもっと低下するかもしれません。
教師になりたい方、このチャンスを逃さないで! と言わずにはおれません。

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教員採用試験受験資格の年齢制限の緩和・撤廃

 教員採用試験では、多くの自治体で受験資格に年齢制限が定められていました。例えば1994年の試験では、年齢制限がないのは2県だけで、30歳未満の自治体もありました。

 しかし、2007年度採用の試験では、年齢制限のない自治体が9に増加。30歳未満は0、京都市は48歳未満、東京都滋賀県、熊本県が40歳未満、というように、年齢制限が緩和される傾向にあります。

 30歳未満、35歳未満という厳しい年齢制限で教師になることを諦めていた方も、このような緩和・撤廃の動きの中で、十分チャンスがあるのではないでしょうか。

 かくいう私も、教員免許を持ちつつも教師にはならなかった者の一人。まあ私の場合は、大学院に進学してしまったからではありますが。今からでも、教員採用試験を受験しようかしら(笑)。

 もちろん、今から教員免許を取得しても、十分間に合います。大学や短期大学を卒業されている方なら最短1年、卒業されていない方でも2年で免許を取得できます。小学校教員認定試験を受験するという方法もあります。

 本 当に今の学校・子どもたちは大変です。それでも、教師になりたい、子どもたちと共に生きたいと思う人には、是非とも教師になってほしいと思うのです。学校 には、いろいろな人が必要です。22歳で教壇に立つ人とは違う意味を子どもたちに与えることができるのではないでしょうか。

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通信制大学に入学する

 通信制大学の入学時期は、4月と10月です。4月入学と10月入学、どちらが有利だとか、どの時期に出願するのがいいとか、そういったことも無い わけではないのですが、それよりも、自分が学びたいというその時期に学び始めることが大切。「思い立ったが吉日」ではないかしら。出願期間は、数ヶ月にわ たりますから、結構チャンスはありますよ。

 ここでは、S大学を例にとって説明をしておきましょう。

■入学資格

 S大学の場合は、以下のような学生区分があります。

・正科生(1年次)
高等学校を卒業した人(卒業見込み含む)や、大学入学資格検定(大検)に合格した人等
※教員免許状、保育士資格を取得する場合は、実技に支障のない人

・正科生(2年次編入学)
短期大学または大学に1年以上在学し、30単位以上を修得している人など
※教員免許状、保育士資格を取得する場合は、実技に支障のない人

・正科生(3年次編入学)
大学・短大を卒業している人、専修学校専門課程を卒業した人(昭和51年4月以前の入学者は該当せず)、大学に2年以上在学し62単位以上を修得した後で退学した人など
※ 教員免許状、保育士資格を取得する場合は、実技に支障のない人

下記に該当する人は二重学籍となるため正科生として入学することはできません。
・ 学校教育法第1条に定める高等専門学校、短期大学(専攻科を含む)、大学、大学院に在籍している人
・ 文部科学大臣の指定する教員養成機関等に在籍している人
※科目等履修生は二重学籍にはなりません。

 また、S大学短期大学部には「特修生」の制度がありますから、高校を卒業していない方、高卒認定試験(旧大検)に合格していない方にも大学に入学することが可能な道が開かれています。

 大学や短期大学を卒業生は、その卒業資格(基礎資格)を活かして、教員免許状や資格を取得することができます。それが「課程正科生」です。3年次編入学をして、必要な単位数を修得すれば修了、ということになります。

■入学時期・受付期間
*4月生;在学期間4月1日~3月31日
 受付期間:1月20日~5月10日

*10月生;在学期間10月1日~9月30日
 8月1日~11月30日

在学期間はこのようになっていますが、学習は随時開始できますので、早い時期に出願した方が、レポート締め切りや試験の受験回数が増えるので、お得。でも、次の出願期間を狙ってやる気がトーンダウンするよりも、やる気があるその時に出願した方がいいんじゃないかな。

■出願から入学まで

 S大学では、入学には書類審査によって入学が許可されます。入学試験はありません。この点は、他の多くの大学の同様かな。なので、広く門戸は開放されている、ということになりますよね。

 流れとしては、

 必要書類の提出→書類審査→入学許可→履修登録・課程登録→教材の配布

となります。

 う~ん、そろそろ疲れてきたので、今日はここまで。

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有責性と、社会的承認としての労働。

 いろいろな仕事が一段落して、ちょっとだけ休息気分になっています。だってこの間、内田樹さんのブログのチェックもできなかったぐらいなのですから、どれほど私が忙しかったのか、ご想像いただけるでしょう(笑。

 それで、久々に読んだブログなのですが、やっぱり、いいです。こういうときに、どういうわけか、私の状態にフィットした記事があるので、やはり、呼ばれているように感じてしまうのです。

 最新記事の「この夏最後の出稼ぎツアー」 は、本当にいいです。これは、県立高校の校長先生対象の研修会で話されたことのベースが書かれています。内田さんは、教育学の研究者ではありません。で も、私自身は、最もインスパイアされ、かつ、安心して読める教育論の一つなのです。内田さんはOKだと思いますので、転載しながら書いていきましょう。

 まず、内田さんは、「有責性」について書かれています。

原則として教育現場からお声がかかったときには必ず行くようにしている。

メディアで発言する知識人の中に、教育現場の先生たちを応援する立場から発言する人がぜんぜんいないからである。
教育現場の実情をほとんど知らない人たちでも、とりあえず教員の悪口さえ言っていれば、それなりに批評性があるように見える。
そういう風潮がある。
誰だって「自分には学校のことがわかっている」と思えるからである。
でも、いま教育の現場で起きていることは悪いけれど「前代未聞」の事態である。
地殻変動的な変化が起きている。
教育現場を批判している人々を含んだ社会構造全体の「ゆがみ」が学校という特異点において拡大されたしかたで露出しているのである。
だから、自分は「ふつう」だと思っている人が学校の「異常」を批判するというスキームを採用する限り、学校で何が起きているかは彼にはわからない。
社会全体が病んでいるとき、社会のもっとも弱い環である子どもを通じて社会の病はもっとも剥き出しのかたちで露出する。
エレベーターが落下しているときに、「落ちているのは誰だ?」というような詮索をしてもしかたがない。
「全員が落ちている」という現状認識を共有するまでエレベーターの落下を止める方策を論じる機会は到来しない。
そういうものである。
「教育再生会議」というのは、いまにして思えば含蓄のあるネーミングであった。
「再生」という以上、教育は「死んでいた」のである。
この認識はある意味で正しい。
教育現場が死んでいるということは、教育理論も、教育行政も、政府主導の教育改革も、およそこれまで教育について語られてきた言説となされた実践のほとんどは「死んでいた」ということである。
残念ながら、教育再生会議はそこまでは知恵が回らなかった。
というのは、会議に招集された「有識者」たちは全員がこの「教育の死」に加担してきたことを否認したからである。
まずその事実を認め、自分たちがそれまで行ってきた教育実践はこの事態の到来を防ぐことができなかった点について程度の差はあれ有罪であるという「有責感の自覚」から会議はスタートすべきだったと思う。
しかし、彼らはそうする代わりに「実現されなかった正しさ」の代弁者という立場を取った。
それでは「教育の死」が彼ら自身をもまきこんだ巨大な構造的な問題である可能性には思い至ることができない。
人はそのようにして構造的無知の立場を先取してしまう。
ショートスパンの「正しさ」を手に入れる代償に、ロングスパンの「無知」を呼び入れてしまうのである。
人間は不注意から愚鈍になるのではない。
愚鈍さはつねに努力の成果である。

私が教員たちの集まりに可能性を感じるのは、ここが「教育危機を誰か自分以外の誰かのせいにする」余地がない考えうるほとんど唯一の場だからである。
現場の教員の現実認識がメディア知識人よりすぐれているのは、彼らは「何が起きているのか、実は自分たちにはよくわかっていないということをわかっている」点にある。
メディア知識人は教育について「そこで何が起きているのか熟知しているような顔」をしている。
だからきわめて切れ味よく、危機の原因が何であって、それを補正するためには何をすればいいのかをぺらぺらと説明してくれる(もちろん、彼らが言うようなシンプルな政策で教育危機はどうにもならない)。
現場の強みは「教育危機のせいで現に困っている」ということである。
メディア知識人や文教族の政治家は本音を言えば、教育危機で別に困っているわけではない。
むしろ「出番」が増えて、メディアで顔を売り、原稿料を荒稼ぎする絶好の機会である。
学校で何が起きようと、そんなことは彼らにとってはどうでもよいことである。
だが、教員にとって教育危機はダイレクトに血圧が上がり、胃に穴が開き、血尿が出る具体的な問題である。
彼らの血圧を下げ、胃の粘膜にやさしく、腎臓への負担をやわらげるものであり、かつ彼らを説得できるだけ現実的経験に裏付けられたリアルなことばしかこの場では通用しない。
だから、私は教員たちを前にして教育危機の実相とそれへの対処について論じることを一種の「テスト」だと思っているのである。

 私自身、長く身を置いた大学院から離れ、教育実践の場である自分の「学校」を開いてから、いわゆる知識人たちの「有責性」の無さにかちんとくる場面が増えてきていました。

 もちろん、これまでの私も、その一員であったのかもしれません(そうならないように、自分では気を配っていたつもりではありましたが)。でも、自分で全ての責任を持つ、教育と経営の場を持つことで、そういう方々と自らの違いを痛切に感じるようになったのです。

 もちろん、「現場の人間にしかわからない」「経験しないとわからない」と言うつもりはありません。「経験しないとわからない」ということで、コミュニケーションの回路を断ちたくはないものですから。

 ただ、私自身に関していうと、「自ら責任を引き受ける」という立場に身を置くことによって、精神的な衛生を得られたように感じるのです。

 もちろん、大変なことも増えました。

 けれど、他者の責任を引き受けることの心地よさというものも、その一方では感じているのです。

 さて、内田樹さんの講演の本題について。以下のように記事は続いています。



本日の講演は「なぜ若者は労働のモチベーションを維持できないのか?」

これに関しては先日『文藝春秋special』という媒体に文章を書いたので、これをマクラにして90分間話す。
参考のために文春に寄稿したものを採録しておこう。もう出版されてだいぶ経つからよろしいであろう。

「やりがいのある仕事」を求めて短期間に離職・転職を繰り返す若者が増えている。ニートや非正規雇用が問題になるときにも、「やりがい」という言葉 が繰り返し口にされる。「若者にもっと『やりがいのある仕事』を制度的に提供できれば、問題は解決する」という言い方をするメディア知識人も少なくない。
だが、「やりがいのある仕事」とは何のことなのか。
この語の語義について、国民的合意は存在するのだろうか。私は違うと思う。そして、同一語を別の意味に使っていることが、事態を混乱させているのではないかと思っている。
ある年代から上にとって、「やりがいのある仕事」というのは、「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味している。おのれ労苦の「受益者」がどこ かにおり、その笑顔や感謝を想像することが労働のモチベーションを担保する。それが「やりがい」という語の意味だったはずである。
だが、この定義は若い世代にはもう適用できない。というのは、今ではどうやら個人の努力がもたらす利得を「私ひとり」が排他的に占有できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と呼ぶ習慣が定着しているようだからである。
「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。
受験勉強では努力と成果の間に「正の相関」があり、個人的努力の成果は本人が100%占有する。一生懸命勉強をして入試で高得点を取ったので、あまり勉強 していなかった隣席のヤマダくんもその「余沢」に浴していっしょに合格できた、というようなことは受験勉強の場面では絶対に起こらない。
けれども、私たちの日々の仕事の現場ではむしろそちらの方が常態なのである。仕事のほとんどは集団の営為であり、利益は仲間の間で分配され、リスクはヘッジされる。人間的労働は集団的に行われることで効率を高め、危機を回避するメカニズムだからである。
受験勉強は将来の労働者を類別・序列化するためのシステムではあるが、それ自体は労働ではない。それを同一視して、受験勉強をする気分で労働の現場に踏み 込んでくる若者は仰天してしまうのである。どうして、ここでは自分の努力の成果が自分に専一的にリターンされないのか?受験勉強的「成果主義」になじんだ 子どもは、自分の努力が固有名での達成としてはカウントされず、集団で(それもろくな働きをしていない人間も含めて)分配しなければならないという「不条 理」が理解できない。
しかし、若者たちの多くはアルバイトをしているではないか、というご意見があるだろう。あれは労働ではないのか、と。
残念ながら「バイト」は労働の条件を備えていない。というのは、あれはモジュール化・マニュアル化された労働の「断片」に過ぎず、アルバイト労働は断片化 されることで互換性を確保している。それゆえ、バイト労働者には労働契約に規定された以外の労働をすることが要求されない。だから、彼らは「自分の仕事」 の境界線の外に生じたミスやトラブルを「自分の仕事」として引き受ける習慣がない。
しかし、ビジネスの現場では、ミスはしばしば「誰の領域でもないグレーゾーン」に発生する。「自分の仕事」ではないのだけれど、とりあえず片付けておく か・・・という「よけいなお節介」によってシステムはしばしば致命的なクラッシュを回避している。でも、彼がシステムを救ったという事実は前景化しない (「何も起きなかった」というのが彼の達成したことだからである)。多大の貢献をしながら、成果としては評価されない。この事実を多くの若者は不合理だと 感じる。
受験勉強とバイトという二種類の「ワーク」を通じて労働というものを理解してきた子どもたちには「成人の労働」の意味がよくわからない。
成人の労働の本質は、個人の努力が集団の達成に読み替えられる変換のうちに存する。自分の努力の成果が、できるだけ多くの他者に利益として分配されること を求めるような「特異なメンタリティ」によって成人の労働は動機づけられている。それが納得できないという人は成人の労働には向かない。事実、多くの若者 たちが「三年で辞める」のはそのせいである。
「やりがい」を求めて離職転職する若者たちはの多くは個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占できる仕事に就こうとする。たしかに才能があれば、起業家や 投資家や作家やアーティストや医師や弁護士になれるかもしれない。けれども、「個人的努力の成果を占有できる」ということは、裏から言えば「リスクを全部 一人で負わなければならない」ということである。どれほどスマートでタフな人間も天災や政変や疫病のようなリスク・ファクターのすべてを回避することはで きない。利益を分配する代わりにリスクをヘッジしてくれる集団への帰属を拒否する人間は一回の失敗ですべてを失う可能性を勘定に入れておいた方がいい。
私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ 多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。 この代価は決して高いものだと私には思われない。

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通信制大学の出願

 通信制大学(大学の通信教育課程)に入学しよう、教員免許や保育士資格を取得しようと思ったら、まずは各大学のパンフレットを取り寄せて、比較検討、そして、大学を決めたら、さあ、出願です。思い立ったが吉日、そのときがチャンスです。

 今回は、出願手続きについて書いてみますね。

 例えば、S大学通信教育部の出願に必要な書類は以下のようなものとなっています。

出願書類名 備考
入学願書 大学指定の用紙。写真を添付。
入学資格を証明する書類 卒業証明書等。入学資格によって異なるので、後述。
入学志願者健康診断書 大学指定の用紙。3ヶ月以内の診断。東京都の場合は、保健所では健康診断が受けられないので、医療機関で診断を受ける必要があります。保険がきかないので、病院によっては、1万円近い出費に(泣)。
選考料振込受付証明書 入学選考料10000円を銀行から振り込むのですが、その払い込んだよ、という証明書。大学指定の用紙に、金融機関のはんこを押してもらいます。どーでもいいんですけど、金融機関の手数料、これも高いんだ。1000円近くになることも。
受理通知用葉書 大学が「書類を受け取りましたよ」という通知を出願者にお知らせするための葉書。50円切手を添付。
基礎資格及び単位修得証明書 教員免許状や保育士資格の資格の取得を希望する人で、課程認定を受けている大学等や、指定保育士養成施設で単位を修得している人は、出身大学等で証明を受けて提出。大学指定の用紙。
学生証・受講証発行申請書 大学指定の用紙。写真を添付。

 S大学の場合は、こういった書類が必要です。大学指定の用紙に、「鉛筆で記入」「写真はカラー」といった指定もありますから、気をつけて。でもまあ、そんなに書類の量は多くないので、大丈夫!

 入学資格を証明する書類は、以下のようになります。

正科生 入学資格 提出書類
1年次入学 高等学校、中等教育学校卒業の人 出身高校の「調査書」(調査書が発行されない場合は、「卒業証明書」と「成績証明書」)
大学入学資格検定(大検)合格の人 「合格証明書」と「成績証明書」
2年次・3年次編入 大学または短期大学を中退した人 大学または短期大学の①「在学期間証明書」、②「単位修得成績証明書」
大学または短期大学を卒業した人 大学または短期大学の①「卒業証明書」、②「成績証明書」
高等専門学校(5年制)を卒業した人 出身高等専門学校の「卒業証明書」と「成績証明書」
専修学校専門課程(3年次編入学の入学資格6.に該当する場合に限る)を卒業した人 専修学校の「編入学資格証明書」と「卒業(修了)証明書」・「成績証明書」

卒業見込みで受験される場合は、「卒業証明書」ではなくて、「卒業見込み証明書」が必要です。発行は3ヶ月以内です。

卒業証明書等は出身大学に申込が必要です。大学等に行けない場合は、郵送で申し込んで、郵送で返送、1週間くらいはかかってしまいます。その間に、健康診断をして、他の書類を整える、って感じでしょうかねえ。そうそう、写真も撮って!

名前が変わっている場合は戸籍抄本が必要とか、個別に必要なこともありますので、ちょっと面倒でも、募集要項で、逐一確認をしておきましょう。もちろん、「教職学院」にご相談くださってもかまいません。

 S大学の場合には、こういった書類が必要なのですが、住民票や志望理由書の提出が求められる大学もあります。

 書類を整えて、出願したら、「受理通知葉書」が届くのを待つことになります。

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課題文が提示された小論文について

 今日は、学生さんの小論文をずっと読んでいました。
 課題文が提示されて、それを読んだ上で、論述する、というタイプの問題です。意外と学生さん、苦戦されています。
 今回の出題文は、非常に教育的なテキストでした。ある意味で、非の打ち所の無い、全部が共感できるようなテキストだったので、書きづらかったのかもしれません。
 でもたとえそうであったとしても、やはり、課題文が提示されている出題の場合、出題文に言及しながら自らの見解を述べてほしいと思います。論文の中で、出題のテーマが独自に展開されていたとして、出題文との関わりが読み取れないものでは、出題の意図が理解されていないと判断されかねません。また、出題文をなぞるだけの解答も避けてほしいと思います。出題文の筆者の主張と、自分自身の主張を区分し、両者の関係について自覚しながら、解答を作成してほしいと思います。
 だから、課題文が提示されている小論文の採点基準は、はっきりしているんですよ。

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「勉強って役に立つの?」

 子どもたち(に限るわけでもありませんが)を教えていると、よくこう聞かれます。
 「こんな数学、役に立つの?」「俺、英語なんて使わないし」等々。
 確かに、子どもたちが言うことも、一見、あたっているように思いますよね。だって、私だって、日常生活する上では、微分積分なんて、使いませんから!
 でも、こういう学習をする理由って、子どもたちにわかるように説明することができるのでしょうか?
 勉強をすると、「こんなにいいことがある」「こんなに就職に有利」、そんなチープな資本主義的な枠組みの中でしか、子どもたちに説明することができないのではないでしょうか。というのは、彼らの持っている、理解の枠組みは、現代社会で最も支配的な資本主義、消費社会のスキームですから。子どもほど、ダイレクトに時代を感じ取っている存在はありません。
 人間が行っていることは、非常にわかりやすいことだけではありません。子どもには判らないことが、世の中にはあるのだと思います。
 私自身、そのようなかつての自分のスキームでは理解できないことがあるということを、年齢を重ねる上で痛感する場面が多くなりました。まだまだ、一応(!)若いので、もちろんこれからも、「今」のスキームを壊し、構築していくことの繰り返しだと思います。だからこそ、今の自分のスキームで、「役に立つんですか?」と問うことのナンセンスさを感じてしまうのです。
 「いいからやりなさい」。こう子どもに言うことは、権威的な、悪しき教師像として語られていたように思います。けれど、人間の学びが、自分のスキームを超えた「他者」なるものに出会うということである以上、「いいからやりなさい」は、必然的な構造であるように思うのです。
 教師の側が、それだけの覚悟をもって子どもたちに向かうときには、子どもたちは、その「真実」がわかるようです。こちらの気迫というのは、不思議なことに伝わるものです。
数十人の学生さんの前で講義をしていても、私が、一種のルーティンとして知識を授与するような話の場面と、たとえ余談ではあっても、あるいは、学生さんにはわからないだろうなあと思うような内容であっても、気迫のある内容の場合には、反応が違うものです。そして、後者の話を面白い、と感じている学生さんは、なぜか、伸びるように感じます。
 それはどうしてでしょうか。その理由の一つの説明の物語については、またの機会に書きたいと思います。

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教育系の通信制大学のサポートをしています。

 今日もばたばたとあわただしく、一日が過ぎました。
 なんか最近、圧倒的に教えている時間が長いです。教えるためには、自分自身が学ぶことが大切なわけで、私自身、「学生」でいる時間も作っていたいとは思ってはいるのですが……。

 さて、「教職学院」の最初の頃のブログをご覧になった方はご存知かと思うのですが、「教職学院」では、いろいろなことが学べます。
 その中から今回は、通信制大学のサポートについてご紹介しますね。

 皆さん、通信制大学ってご存知ですか? あまりメジャーじゃないかもしれないんですが、レポートの提出とスクーリング、試験といった学習形態をとって学ぶことのできる大学です。
 通信制大学の入学は、多くが書類選考ですから、門戸はかなり開かれていると思います。
 けれど、通信制大学を卒業するのは、それほど容易なことではありません。大学によっては、卒業率が10%を切るところもあるようです。
 「教職学院」では、通信制大学に入学して卒業を目指す皆さんのサポートを行っています。大学の専門領域は、小学校教員養成です。免許の取得だけでなく、大学の卒業、教員採用試験の合格まで、一貫して指導していきます。

 今からでしたら、10月入学に間に合います。
 ぜひ、お気軽にお問い合わせください!

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「身を委ねる」こと

 学生さんの指導に関わっていて、自分の今、持っているスキームで学ぶことの必要か否かを裁定する学生さんよりも、とりあえず私の話に「乗る」ことのできる学生さんの方がどうも伸びるように、経験的には感じています。試験に合格率も、圧倒的にそういう学生さんの方が高いように感じます。

 どうして、私の話に「乗る」ことのできた学生さんの方が、伸びるのでしょうか? 私の講義がそれほど効果的だから? ははは、そんなことは口が裂けても言えません。

 私の話に「乗る」ことのできる学生さんというのは、話の内容がわかろうがわかるまいが、自分の身を相手に委ね、新しいスキームを取り入れることができるのだと思います。自分のスキームが強固な方の場合は、自分のスキームから、「これは必要無い」と判断していきますからね。だから、そう簡単には、人の話には「乗る」ことができないんです。
 でも、「乗る」ことのできる人は、とりあえず、自分の考えは括弧に入れて、すなわち、自らのスキームを一旦手放して、人の話を聴ける人なのだと思います。

 そういう構えのある人は、他のあらゆる場面でも、そのように自らのスキームを手放して新しいスキームを、異なる度量衡の尺度に触れることができる人なのだと思います。
 そういう人は、自分のスキームを超えたものを吸収することができる……だから、伸びるのだと思います。

 本当に不思議なもので、どういうわけか、これでかなりはっきり、伸びる人とそうでない人を見分けることができるのです。

 でもまあ、人には相性というものがありますからね。私に身を委ねることができない方でも、他にきっと、そういうことができる人がいるはずです。

 私でなくても、もちろんかまいません。どこかでそういう「他者」を見つけて、自分のスキームを手放す体験をしてほしいと思うものです。

 さて、こういったことを延々と書いているのは、自らの深い反省から。

 私自身は、自らのスキームを確固として生きるよう、再教育された、という悲しみがあります。今だったら思うんですよ、そんな教育は間違っている、と。「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)は、「百害あって一利なし」です。それよりも、こだわりもプライドもなくてして、相手に身を委ねることができた方が、ずっとずっと、成長することができると思うんですよ。

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通信制大学のどこが難しいの?

 教員免許の取得を考えてらっしゃる方からご質問のメールをいただきました。皆さんにもお知らせしておきたい内容ですので、私の書いたお返事をここに転載いたしますね。

Q.免許を取るために通信制の大学に通おうか、考えているのですが、一人で履修していくのはやはり大変なのでしょうか?
 具体的にどのような点が難しいのでしょうか?

A.Iさん、こんにちは。ご質問、ありがとうございます。
お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。

通信制大学で教員免許の取得をお考えなんですね。
Iさんが取得を希望されている免許状の種類や、通信制大学の何年生に入学されるのか(すでに短大や大学を卒業されているのであれば、3年次編入が可能 です)、スクーリングや試験の日程を合わせられるのか、レポートを書いたことがあるのか等々、様々なことを考えないと判断が難しいので、一般的なことしか 書けないかなあと思うので、その点はお許しくださいね。
メールででもかまいませんので、Iさんの詳しい状態をお知らせいただけませんか。そうすれば、もっと具体的に、いろいろとお知らせすることができると思います。

とりあえず、今回は、一般的なことを書いておきますね。
通信制大学の場合、通学制とは比べ物にならないくらい、修了率が低いです。多くは、最初の1年目でやめていく方が多いようです。そういった意味では、ある程度真面目に通学していれば修了できる通学制とは大きく異なりますよね。

具体的に大変な点は、まず、レポートを書くということでしょうか。基本的に通信制は自学自習ですから、自分で教科書を読み、参考文献を探し、レポー トを仕上げる必要があります。専門書を読みなれていない方、レポートを書きなれていない方には、最初はなかなか大変だと思います。

また、多くの事務手続きも大変かなあと思います。
例えば、通信制大学では、レポートの提出期間、試験やスクーリングの申込期間等が、細かく定められていることが多いんです。そのスケジュールを管理して、締め切りに間に合わせていくというのは、結構大変なんですよ。履修手引き等を、熟読する必要もありますし。

また、一度にどばっと送られてくる教科書を、どういう順番で学習していくのか、履修の計画を作るのも、この分野が未知の方にとっては難しいのではないでしょうか。関連づけて学習したり、順番を意識して学習した方がいい科目っていうのがあるんですよ。

「教職学院」では、履修を組み、学習計画を立てた上で、レポートの書き方を指導していきます。もちろん、スケジュール管理も行っております。
よろしかったら一度、ご相談にいらしてくださいね。

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理想の単一の教育論なんて。

 

内田樹さんのブログを読んでいたら、笑うに笑えない記事がありました。ちょっと古い記事なんですが、全面的に賛成なので、その一部をご紹介したいと思います。

「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、 「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられ るようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。
安倍内閣は仄聞するところでは教育改革にたいへん熱心であるらしい。
教 育基本法を改定し、教師の資格制度を整備し、学習指導要領を緻密化し、教育委員会による教師たちの統制と支配を強化する・・・という施策は「ありうべきた こ焼き」を全国のたこ焼き屋に作らせるために、「たこ焼き基本法」を整備し、「たこ焼き士」認定制度を作り、「たこ焼き作成要領」を法整備し、「たこ焼き 監視官」を全国に網羅的に配備して、「青のりの散布量が標準値よりも少ない」たこ焼き屋を摘発するのとまったく同じことである。
申し上げるけれど、そんなことに行政的なリソースを割くのは、税金をドブに棄てることに等しいであろう。
それによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性は限りなくゼロに近い(「ゼロである」と言い切れないのは、教育改革のあまりのばかばかしさに全国民が気づいて「もうこんなのやめようよ」と言い出す方向に棹さす可能性を否定できないからであるが)。
私は「教育はいかにあるべきかに」ついて首相官邸にいるどの政治家官僚よりも長い時間考えてきている。
これについては自信がある。
その私が言うのだから、信用して欲しい。
日本のたこ焼きのレベルを上げようと思ったら、たこ焼き屋に創意工夫をするフリーハンドを与えることが最良の方法である。
教育も同じである。
政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。
あなたがたが学校のことを忘れてくれたら、それだけで日本の教育はめざましい復活を遂げるであろう。
それは私がお約束する。

という話なのだが、今日、学生さんたちとこの文章を読んで、笑うに笑えない話だということを始めて知った。

食品関係の会社に勤めていた学生さんが、まさにこの「たこ焼き」と同じように、食品を作っていたという。機械を使って加工食品を作るためには、マ ニュアル作成が重要。その食品を作るときに、まったくノウハウが無いアルバイトのような人たちでも、一定の同じ「味」のものが作れるように、まさに「たこ 焼き基本法」を作成しているそうだ。

なので内田さんの「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに」というのは、現実とは違うかも、と言わざるを得ないのかもしれませんが(笑)。

まあそれはともかく、単一の「理想の単一のたこ焼き工程」があったとしても、人間にそれが当てはまるはずは決してありません。

子どもが違い、教師が違えば、同じ教育方法でも効果は全く異なります。私自身も、相手によって常に教材を変え、語りの内容を変え、語り方を変えています。同じ内容・語りでも、まったく反応が違うためにとまどうことも少なくありません。

よく考えれば、そんなことって当然のことですよね。私たちは日常的に、相手の反応を見ながら、自らの表現方法を変え、少しでもコミュニケーションが進むように努力するものではありませんか。

それからもう一つ。

こうして教職学院を開いて自らが教育実践を行う場面が多くなると、調査者として教育現場に入ることの意味について考えさせられます。私自身、「研究」と称して現場に入り、ペーパーをまとめ、メディア(大小の違いはありますが)でも発言をしてきました。

どこかで、「子どもバッシング」に加担したなあと思うような部分もあり、反省の気持ちをいだかないわけでもありません。

こうして実践の場に身を置くようになり、「学校のことは忘れて欲しい」ということに強く共感しています。

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アジールのような場。

 「教職学院」は、教育学を学び、教師を育てる小さな学校です。

 フランス現代思想がご専門の内田樹さんのご著書の中に、次のような一節があります。

 ぼくは自分の道場をある種のアジールにしたいと考えているんです。道場って広いところに畳が敷いてあるから、家出したやつとか、食えないやつと か、けっこう置けるじゃないですか。「寝袋貸してあげるから、そこに寝なさい」って。それで朝6時に起きて道場の掃除して、子どもクラスの指導して……そ ういう書生みたいな内弟子が入れ替わり立ち替わり出たり入ったり道場で暮らしている。『姿三四郎』で三四郎がごろごろ暮らしている講道館道場みたいな、そ ういう私塾のようなアジールのようなものがあったらいいなと思っているんです。(略)そこにいる間に何らかの技芸が身につくような授産施設の側面があれ ば、なおいいですよね。(内田樹・春日武彦、2005『健全な肉体に狂気は宿る――生きづらさの正体』角川書店、217頁)

 教育学を教えてきて、教育学を学びたい、教師になりたいという学生さんの強い思いに日々接してきました。そういった学生さんを何人も大 学・大学院に送り出してきました。しかし残念なことに、少なくない学生さんが、大学・大学院での教育に失望し、私のところに相談にやってきます。もちろ ん、彼らの例をもってして、今の高等教育機関がうまくいっていないと断言するつもりはありません。ただ、私の周りにいる、学びたいと思っている方々の気持 ちを大切にしたいと思うのです。
 教育学を学びたい、教師になりたいという夢を抱きつつも、困難を抱えているのは彼らだけではありませ ん。様々な事情で教育学部に進学できなかった方々もたくさんいます。教育学部に限らず、高等教育へアクセスすることができない方も少なくありません。一旦 社会に出てから、改めて学びたいと思った方もいます。
 学びたいという強い希望を持ちながらも、自分一人ではうまくいかない、そういった方をサポートしようと始めた学校が、この「教職学院」です。
 私にできることはそれほど多くはありません。これまでやってきた、教育学を教えること、そして、その教育学の実践の場で子どもたちを教えること。それを、アジールのような場所で、微力ながら取り組んでいきたいと思うのです。
 「私塾のようなアジールのような」この場所で、ここにいる間に教師としての力量を身につけていく。教育学を学ぶ学生たちは、日常的に子どもたちとかかわり、子どものクラスを指導する。子どもたちも日常的に、異年齢の人たちとコミュニケイトし、総合的に学んでいく。
 そんな場所にしていきたいと思っています。

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教員の定数を増やす計画。

 ちょっと古い話題で申し訳ないのですが、教職員の定数を増やすことを、文部科学省が計画しています。来年の概算要求で、小中学校の教職員を訳2万1000人増やす計画だそうです。新たに設置された「主幹教諭」などの配置や、習熟度別・少人数指導の充実、特別支援教育の充実等のためだそうです。
 公務員削減も言われていますし、そもそも子どもの数が減っていますから、どこまで実現できるか、まだ、不透明な部分もあります。
 でも、やっぱり、丁寧にみてあげれば、それだけ子どもは育ちます。ぜひとも、これが実現していってほしいと思います。
 そうなると、教師になるのも、来年度からの3年間がチャンスかもしれません。
 まだ、教員免許を取得されていない方も、認定試験に合格すれば、再来年から教員採用試験を受験できます。
 教職学院では、認定試験対策講座を行っています。これから対策を始めても、まだ、間に合いますよ。

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先生という仕事

 教職学院では、先生になりたい方々のサポートをしています。

 誰でも、学校に行き、先生に教わってきたわけですから、先生の仕事に対して、何らかのイメージを持たれていることと思います。私のような仕事をしていると、「先生ってさ~」というような話を聞くことが多いのですが、先生のイメージは、非常に様々です。両極端と言ってもいいような話も少なくありません。

 先生という仕事は、「三日やったらやめられない」と揶揄する言葉もあるように、いくらでも手を抜いて、「ラク」にすることができる仕事です。相手は子どもだし、それに、公務員だし!

 その一方で、非常にきつくて、体力的にも精神的にもまいってしまうことがあるような仕事でもあります。

 先生の仕事には、終わりというものがありません。子どものことを考えたら、また、自らの実践力量を上げようと思ったら、いくらでも仕事は生まれてしまう、そんな仕事です。仕事はここまで、というはっきりとした確定がないのです。

 また、自らの仕事の成果・評価は、非常に長いスパンで考えなければいけない仕事でもあります。担任の一年間が終わるまで……いや、そんな短い時間ではありません。では、その子が学校を卒業するまで? 社会に出るまで? これでもまだ短いです。

 私は、大学を卒業してから、もう何年も立っています。自分の学校体験をふりかえると、その時の評価は、その後の自分の人生で、何度も変わっています。

 在学中にはなんとも思っていなかったことが、卒業して、大人になって、先生の言いたかったことがわかったことがあります。このような学校体験を持つことができたことを、本当に幸せに思っています。

 卒業して、何年も経ってから、その子の人生に意味を持たせることがあります。

 それが、教育という仕事の本質なのです。

 だから、教育という仕事の最終的な評価は、自分の教え子が死んだときにわかるものなのです。

 こんなにも息の長い仕事です。にもかかわらず、結果を重視する現代社会において、教育も短期的なスパンで考えることが多くなっているのではないでしょうか。

 教育の仕事に、「時間」という軸を入れて。ゆっくりと子どもを育てるような教師がたくさんいたら。

 教職学院でも同じように、「時間」という軸を入れて、ゆっくりと先生の卵の学生さんたちを育てたいと思っています。そして、私たちの仕事の評価も、教え子の学生たちが先生になって、どんな仕事をするのか、退職の日を迎えるまで、わからないのです。

 ですから、彼(女)らが退職の日を迎えるまで、長く、関わって、サポートを続けたいと思うのです。

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ご挨拶

 教職学院は、「小学校の先生になりたい」」というあなたの夢をかなえるため学校です。
 今、教育は多くの困難を抱えています。子どもたちの「学力低下」が叫ばれ、教師批判がなされ、様々な教育・学校改革が進められています。保護者・地域社会と教師・学校関係も大きく変わろうとしています。これまで教育の現場が想定していなかったようことが次々と起こっているのが、現在の教育現場だと思うのです。
 こんな時代だからこそ、本当に教師になりたい人に先生になってほしい、私たちはそう考えます。
 先生になりたい、子どもたちのために仕事をしたい、そういう夢を持っていても、その夢をあきらめている方は少なくないのではないでしょうか。
 「教員免許を持っていないから」「今からじゃ、無理じゃないか」、そうやって先生になることをあきらめている方が多いとよく耳にします。でもその一方で、それでもあきらめきれないから、何か方法はないのかという相談をよく受けます。
 確かに、高校卒業のときに教員免許を取得できる大学に進学していなければ、その後、教員免許を取得できることが難しいように思われがちです。
 でも、あきらめる必要はありません。決して不可能なことではありません。そして、教員採用試験の年齢制限が緩和されている今日においては、実際に教育現場に立つことも、十分可能なのです。
 ただ、そのための情報は、残念ながら、広く知られてはいません。また、そのための学習支援体制も整っていないのが現状でしょう。
 でも、逆に言えば、適切な情報と学習支援体制があれば、先生になるという夢を実現させることは、可能なのです。
 夢をあきらめる必要はありません。
 先生になりたいという強い意志を持ったあなたにこそ、先生になってほしいと思うのです。そして、そういう方が今の子どもたちに、学校に必要だと思うのです。
 私たちと一緒に、あなたの夢を実現させませんか。

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