教育学を学ぶ

どこでも寝られ、なんでも食べれて、誰とでも友達になれる?

ちょっと古いエントリなんですが、内田樹さんのブログのエントリ、「生きていてくれさえすればいい」は感動的です。

近世日本が世界でも例外的に「子どもをかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。
これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。
寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。
子 どもたちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉ではなく、子どもひとりひとりに与えられた課題が違うせいである)。手習いなんか しないでそこらへんを走り回ったり、まわりの子どもの邪魔をしたり、障子を蹴破ったり、上がり框から転げ落ちたりしている子どもいる。
もちろんおおかたの子どもたちはまじめに勉強しているんだけど。
総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。
理由の一つは幼児死亡率が高かったことにある。
江戸時代の平均余命は男子が20歳、女子が28歳である。
これほど低いのは、生まれた子供の7割が乳児幼児のうちに死んだからである。
だから、元気で遊んでいる子どもというのは「よくぞここまで育ってくれた」という感懐と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。
そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。
もちろん西欧だって幼児死亡率は日本と似たようなものであるから、それだけでは日本人が例外的に子どもを甘やかしたことの理由にはならない。
だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現のことばを聴くことはまれである。
それだけ子どもをとりまく衛生環境が向上したからである。
子どもが「生物学的に生き残ることが当たり前」になると、今度は「どのような付加価値をつけて、子どもを社会的に生き残らせるか」ということが親にとって切実な問題になる。
今の日本では、「子どもをどうやって社会的に生き残らせるか」という問いは「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに書き換えられる。
「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれている。
繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごくごく例外的なことである。
人類史の99%において、「生き延びる力」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。
細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲撃や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。
環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる・・・そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。
けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。
だから、現代日本のような極度に安全な社会においては、「生物が生き残るために最優先に開発すべき資質」の開発は顧みられることなく、ごく例外的な歴史的条件下でのみ有意である「金を稼ぐ能力」の開発に教育資源のほとんどが投じられることになったのである。
私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的に安全な社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。
つねに死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」でならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会のどちらが子どもにとって幸福かという問いに答えるのに逡巡する親はいないであろう。
でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンが払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。
ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的・生理学的な人間の存在にはほとんど触れることがない。
でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人間が死ぬ。
社会が安全になったせいで、命の重さについて真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。
社会はあまりに安全になりすぎると却って危険になる。
そういうこともあるのかも知れない。
「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。

もちろん、全体の主旨が感動なのですが、今回、書いておきたいなあと思ったのは、以下の部分。

環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる・・・そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。

そう。

「どこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる」この4つって、人生を生きていく上で、大切なことだと思うのです。

それで思ったんです。

教職学院の職員採用面接では、こう聞こう、と。

「どこでも寝られ、なんでも食べれて、誰とでも友達になれる?」(危機感知能力は自分ではわからないでしょうから)

これにパスした人を、職員では採用したいと思います(笑

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中教審の反省。

学生さんから、「中教審が「反省」したという記事を読みましたよ」というメールをいただいて、読売新聞を読みました。

 あらまあ。

 「「授業減らしすぎた」中教審が異例の反省」という記事です。驚きました。こんな記事です。

 次の学習指導要領を審議している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が、近く公表する中間報告「審議のまとめ」の中で、現行の指導要領による「ゆとり教育」が行き詰まった原因を分析し、「授業時間を減らしすぎた」などと反省点を列挙することがわかった。

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 中教審はすでに、小中学校での授業時間増など「脱ゆとり」の方針を決めているが、反省の姿勢を明確に打ち出すのは初めて。中教審が自己批判するのは極めて異例だが、反省点を具体的に示さなければ、方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断した。

 中教審は1996年、それまでの詰め込み教育への反省から、思考力や表現力といった学力と、他人を思いやる心などを「生きる力」として提唱。現行 の学習指導要領は、この「生きる力」の育成を教育目標に掲げ、小中とも授業内容を3割削ったり、総授業時間数を1割近く減らしたりしたほか、教科を横断し た学習で思考力などを身につける「総合学習の時間」の創設を盛り込んだ。しかし、指導要領が実施されると、授業時間の減少により、「基礎学力が低下した」 「子供の学習意欲の個人差が広がった」といった批判が相次いだ。

 中教審が今回、反省点として挙げるのは、〈1〉「生きる力」とは何か、なぜ必要なのかを、国が教師や保護者に伝えられなかった〈2〉「生きる力」 の象徴として、「自ら学び自ら考える力の育成」を掲げたが、子供の自主性を尊重するあまり、指導をちゅうちょする教師が増えた〈3〉総合学習の時間を創設 したが、その意義を伝えきれなかった〈4〉授業時間を減らしすぎたため、基礎的な知識の習得が不十分になり、思考力や表現力も育成できなかった〈5〉家庭 や地域の教育力の低下を踏まえていなかった――の5点。

 ゆとりが強調されたことで、教師が基本的な知識を教えることまで「詰め込み教育」ととらえ、避けるようになったと振り返るとともに、主要教科の授 業時間が減って、観察やリポート作成の時間がなくなったと分析。さらに、家庭や地域の教育力が低下し、生活習慣や規範意識を身につけさせる上で学校の役割 が増していたのに、その認識もなかったと反省している。

 中教審は、こうした反省を踏まえ、次の学習指導要領では、「生きる力」をはぐくむという理念は残しつつ、十分な授業時間の確保や道徳教育の充実を 図る必要があると結論づけた。近く公表する「審議のまとめ」を基にさらに議論を進め、来年1月ごろに答申をまとめ、文科省が今年度内に学習指導要領を改定 する。

 同省はこれまで、「運用面で問題があったが、ゆとり教育の理念は間違えていない」などとし、明確な反省を示してこなかった。

(2007年10月28日3時0分  読売新聞)

 記事にあったように、中教審がこういった「反省」をされることは、極めて異例のことです。これまでも、「方針撤回」かな、と思われる場面は多かったように思われますが、「反省」なんて。そういう話って聞いたことがないですよね。ですので、本当に私も驚きです。
 それほどまでに、この間の学力論議は厳しいものがあったのでしょう。

 今回の発言について、私はまだ、きちんとした分析ができていないのですが、こういう反省って、気持ちがいいものだと思っています。今まで、反省がなかったことが不思議です。その時点、その時点で精一杯考えて、その都度その都度、反省をしていけばいいと思うのですよ。
 こういう「反省性」が、教師の仕事においても大切なことだと思いますし。

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「関心を集中させる」ということ。

 

が~ん。今、結構長文の記事を書いたのですが、全部消えてしまいました(涙。何か別のソフトで書いていればバックアップが残ったのかもしれません が、私の場合、直接、サーバー上で書いているので、バックアップが見当たりません。せっかく書いたのに。でもまあ、仕方がありません。こうして2回目を書 いていると、きっと、先ほどとは全く違った「オチ」の文章になることでしょう。自分でもどう落ちるかわからないという、書くことの楽しみを味わいながら、 また書いてみたいと思います(眠いことは眠いのではありますが(汗)。

 私のような仕事をしていると、学生さんから、卒業論文や修士論文、大学や大学院の志望理由書、研究計画書の指導をよく求められます。できる限りはお引き受けし、一緒に楽しく勉強させていただいてはいるのですが、なかなか大変だよね、と感じるケースも少なくありません。

 私が大変だよね、と感じるケースは、むしろ、学力の高い、比較的「良い子」で通ってきた学生さんのケースです。

 彼らは、学力がありますし、いろいろなことをそれなりにこなすだけの力があります。そういう意味ではとても楽しみな方が多いのですが、その自分の 能力を、一点に集中させることがなかなか難しいのです。学習意欲の高い方も多いですから、なるべくたくさんのことを学びたい、なるべくたくさんのことを包 括できるようなテーマを選定したい、という無意識的な欲望が強いように感じるのです。例えはっきりと、自覚はされていなくても。

 そういう精神の状況の中で選択されてくるテーマというのは、「学校制度と教育」「理想の教師とは」といった、概括的、価値的なものが多いのです。

 う~ん、これではなかなか論文にすることは難しいです。

 そもそも、「学校制度と教育」なんて、教育学の一つの領域ですし、一生かかってもおそらく終わらないテーマです。また、当為の学で課題を設定していっても、論文で検討した結果の「答え」を導き出すのが難しいと思います。

 論文というのは、そういうものではないんですよ。

 なるべく問題を狭く、はっきりと限定した課題を設定して、仮説を提示し、何らかの実証を行い、結論を述べる。ただそれだけのことではないでしょうか。

 だから、「答え」が導きだせるような課題を設定することが大切なのです。

 高校と大学の学びの大きな違いは、大学では、「問う」力が重要になってくる、ということだと思います。どのような問い方をすればいいのか、それに多くのリソースを注ぐ必要があります。そして、問いの質によって、論文の質が大きく左右されてくるのです。

 う~ん、やっぱり、全然違う方向に落ちてしまいましたね。もう少しこのテーマで書きたいとは思うのですが、続きはまた後日に。

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Yさんの「教育実習日記」2。

 Yさんから「教育実習日記」の続報が届きました。

 彼女は、本当にいい感性を持っていますよね。

 今日は、実習生の体育の授業にTTとして入りました。
  反省会で「TTはメインの教師よりも重要だ」と言われました。
  個別支援、メインの教師の補助、そして何よりも雰囲気づくりをするべきだ…と。
  TTという存在を少し履き違えていました。
   
  ほかの実習生の授業も見学しました。
  「興味の持続」の難しさを知りました。
  最初に興味を示してくれても、3~5分ごとに新しい刺激を与えなければ、興味は持続しにくい。
  指導の工夫が必要であり、指導の工夫によって理解度も変わってくる。
  本当に難しいです。
   
  指導案は骨組みであって、実際に授業をしてみなければ何が起こるかわからない。
  適切な判断と柔軟性が必要なのですね。
  予想外のことが起こると意図・ねらいを達成することを忘れがちになってしまうようです。
   
  児童の笑顔を見ることができたり、自分との距離が縮まっていることを感じたり、
  たくさん嬉しいことがあります。
  元気の源をくれる児童たちに、少しでも楽しんでもらえるような授業にしたいと思います。
  頭はいろんなことでパンクしそうですが…

私は、以下のような返信を、Yさんに送りました。

「TTはメインの教師よりも重要だ」
納得ですね。
今、どの子の支援をしなければならないのか、ぱっとその場での判断を求められますからね。
もしかしたら、最も教師的な仕事なのかもしれません。
こういうその場の判断ということが、教師の専門性なのだと理論的には言われているんですよ。

現場でいろんなことがあっても、ほんと、子どもたちが救ってくれますよね。
だから教師の仕事ってやれるんじゃないかなあ。
私にとっては、学生さんの一言ですかねえ。ははは。

Yさんの「実習日記」、早速、「教職学院」のブログに転載させていただきます。
すごくいい「実習日記」だと思います。
実習の後、こうしていろいろと書き綴っている中で、昼間には気づかなかったことに気づくってこと、ありませんか?
生活綴方教師は、夜、子どもに優しくなる、とよく言われているんですよ。

てなことで、Yさん、実習、がんばってくださいね。

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論文の節度。

 面倒だなあと思いつつ、往復1時間の「自宅」にPCのソフトを取りに行った後は、「教職学院」で、学生さんの答案の採点。B4判1枚程度の小論文の採点なのだが、これが結構な量なので、結構大変。

 採点をしていて、何度も同じことを書いているような気分になる。あれれ? こういうことって、私、授業でも話しているつもりなのだけれど。

 私の言い方が良くないのか、学生さんが自分のこととして聞けていないのか。

 おそらく、その両方でしょうね。

 よくある答案のまずいパターンは、こんなに短い論文なのに、複数の論点が混在しているもの。たった1枚で、そんなにたくさんの論点を論じることはできないでしょ。だから当然、散漫で、尻切れトンボで、論理が飛躍し、根拠が不十分なものになってしまっています。

 序論で論点を一つに限定し、そのことだけを論じるんです。ただそれだけのことなのですが。

 そういえば、このことについても、内田樹さんのサイトで記述がありました。古いブログからですが、紹介しておきましょう。

あのね、キミは学術論文のフォーマットというものがわかっていない。
「モノグラフ」というのは「論点は一つ」と決まっている。
一つの論点を選び、それについての仮説を提示し、それを論証してみせる。
ただ、それだけのことである。
いったい何が論点なのか、それが明示されなければ論文ははじまらない。
しかるにキミの論文は何を論証するのだがよくわからない。
論点は手塚治虫のヒューマニズム論なのか、手塚のジェンダー・ブラインドネスなのか、『ブラックジャック』作品論なのか、「登場人物=記号」論批判なのか…
私にもわからない。
わずか20枚ほどの論文では、それらすべてを論じることはできない。
なぜ、論点を一つに絞るという「節度」が保てないのか。
ある種の知的な学生さんたちの書き物の特徴は、この「節度のなさ」である。
論点ひとつに絞るというのは知的な「節度」を持つということである。
どれだけ多くの参考資料を渉猟したとしても、論点から外れることについては触れない。
「あれも読みました、これも調べました…」と手柄顔で列挙していると、結局何が論点なのかがわからなくなってしまう。
あまり知られていないことだから、この機会に申し上げておくが、「よくできる」学生さんの書く論文が陥る最大の欠点は「証明過剰」ということである。
その仮説が「当てはまる事例には当てはまる」というところで踏みとどまれずに、「すべての事例に当てはまる」という方向へ前のめりになってしまうのである。
残念ながら、「すべての事例に当てはまる」ような仮説というのは、ほとんどの場合「雨が降る日は天気が悪い」というような無意味な同語反復にすぎない。
節度を失った仮説は必ず凡庸化する。
そして誰でも知っており、誰でも同意する仮説に学術的価値を認める人はいないのである。
だから、凡庸でありたくないと望むなら、「限定的事例にのみ妥当する奇妙な仮説」にあえて踏みとどまらなければならない。
この間、春日武彦先生に教えて頂いたのだが、ある種の統合失調症患者は「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式を発見する」ことへの固執を示す。
宇宙の真理のすべてが「ワンフレーズ」に収まることを彼らは切望するのである。
言い換えると、「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」への欲望を自制できることが「健常な知性」の条件だということになる。
モノグラフが成立するか否かは、ひとえにこの「自制」にかかっている。

ということなのですよ。

 「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」を見つけることが知性だと、子どもの頃の私は信じていました。これは極めて「子どもの思考」なのですよ。

 論点を限定的に設定し、そことの関わりだけで本論を展開するんです。それ以外は、例えたくさんの本を読んでいても、書いてはいけません。

 学生諸君の健闘を祈ります。

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大田堯の『教育研究の課題と方法』と論文のスタイル。

 今日の話題は、大田堯の『教育研究の課題と方法』です。前にご紹介した堀尾輝久の『教育入門』といい、なんか、今的ではない、教育学かもし れません(汗)。でもまあ、こういう世界を全く知らない学生さんには、知らせておくことも必要なんじゃないかなあ、と思いまして。

 大田先生のご著書は、いわゆる学術的な論文のスタイルとは違うものが多いと思います。本当に、一般の人に語りかけている、というか。大田先生の東 大時代の講義を聴かれていたある方は、「漫談」だと言っておられました。ものすごく引き込まれる、と。でもその方は、その後に、ネガティブなニュアンスの ことを付け加えてらっしゃいましたけれど。

 今回扱った『教育研究の課題と方法』も、註記はあるものの、キー概念はこのような定義で用い、論文の課題はこうで、仮説はこうで、こういう実証を行って、こういう結論が出ました、といった、よく学会誌で読むようなパターンの論文ではありません。

 学生さんの中には、理系出身の方がいて、いわゆる仮説実証型の論文に慣れている方で、あまりにもなじみがないスタイルだから、「新鮮」だと言われていました。そうとしかコメントできなかったのかもしれませんね。ごめんなさいね。

 こういう、論文のスタイルの違いについて、内田樹さんが、以下のように書いています。内田さんは、転載をお許しくださっている方なので、以下のそれを貼り付けます。

さらさらと小テストの採点をしていると院生のS田くんが、修論の相談に来る。
学術論文のライティングスタイルとして規範化されている作法がどうも肌に合わないというご相談である。
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。
社 会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつあ る主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方) で書かれるのが普通である、ということをご説明する。
「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。
S 田さんは宗教的経験・霊的経験について論述する予定であるようだが、こういう論文では鍵語(「神」とか「霊」とか)を一義的に定義することができない。鍵 語を定義しないままで、「鍵語を定義しえない人間知性の限界性」そのものを問い返す作業をアングロサクソン型の論述で進めるのはかなりむずかしい(できな いことではないが)。
学術性を確保しながら、学術性の基礎づけそのものを問い返すためには、言語的なアクロバシーが要求される。
まず「言葉を操る技術」がなければ、何も始まらない、というようなことをお話しする。
お役に立てたであろうか。

 大田先生が『教育研究の課題と方法』で書かれているものも、このようなスタイルで、思考されたものだと思うのです。

 私自身は、社会科学系の大学院を出ていますから、周りは「アングロサクソン型」の論文を書かれる方ばかり。私自身も、そういうものを書いてきました。

 そのもう一方で、「大陸型」のものも読みつつ。確かに、大陸型のものはなかなか読めないものです。

 けれど、読んで、満足のため息をつきながら本を閉じることができるのは、圧倒的に後者なのです。私の場合は。

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仲本正夫『学力への挑戦』

 今日の話題は、仲本正夫の『学力への挑戦』から。なんでこんな古い実践記録を?? と思われる方もいらっしゃるでしょうが。実は、堀尾輝久の『教育入門』を読んでいる学生さんがいて、なかなか読めない、というので、そのフォローに入ったのでした。

 『教育入門』といえば、私が大学1年生のときの購読のテキストでした。S藤先生、この本1冊で、半期の購読を回したのですから、今思えば、すごい(汗)。私なんて貧乏性なので、どんどん、「過剰」な教材を学生さんに与えてしまいますからねえ。
 それでもって、学部1年のときにこれを読んで、その勢いで、そこに紹介されていた仲本さんの『学力への挑戦』そしてその続編の『自立への挑戦』を一気に読んだことをよく覚えています。
  なんか思うのは、最近の学生さんって、そういう本の読み方が少ないようですね。「何を読んだらいいですか?」とよく聞かれるのです。でも、例えば、テキス トになっている本を1冊読めば、そこで紹介されていて面白いなあと思った本を、言われなくても手に取り、それが面白ければ、その著者のものを全部読みた い! って思うものかなあと思うのですが……。だから、私などは、読みたい本ばかりで、時間が追いつかないのですけれど。そんなもんじゃないのかなあ??
 まあ、それはともかくとして、授業では、仲本さんの実践を紹介しました。
 仲本さんの本は、1979年に出版されています。落ちこぼれが言われ、「ゆとり教育」が叫ばれた頃です。この当時、いわゆる高校の底辺校の3年生の数学で、微分積分を教えた、という実践です。
 底辺校の子どもたちの数学の力は、今風に言えば、「分数ができない高校生」といったところだと思います。では、この子たちに、つまづいているところまで戻って、算数・数学を教えればいいのか? というのが仲本さんの挑戦です。
 基礎学力回復のための「治療的教育」、ドリル重視は、最近も叫ばれています。けれど、高校生に小学生と同じ問題を反復練習させるのって、どうなんでしょう? 高校生のプライドが、それを許さないのではないでしょうかねえ。
  だから仲本さんは、そういう実践はしません。高校生ならば、微分や積分の基本的な概念は、基礎学力に問題があったとしても、つかむことができる、と仲本さ んは言っています。そういう微分や積分の新しい概念の学習を軸にしながら、問題があれば、基礎的な学力への回復へも手をのばしていく、という、高校生にふ さわしい学力、微分や積分の基本の習得と、基礎的な学力の回復の結合した内容が目指されたわけです。
 そして子どもたちは、「根本から」数学を学んだという体験をし、最後には、遠山啓の『数学入門』(岩波新書)が読めるまでになっていくのです。
 この仲本さんの実践って、今、これだけ、基礎学力、ドリル学習の必要性が言われている中で、改めて読み返してみてもいいのではないでしょうかねえ。学ぶということは、抜けているところをそのまま補うような単線的な過程ではないと思うのです。
 皆さんは、どう考えますか?

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小学生の暴力急増。

 突然ですが、小学生の暴力の発生件数について今回は書いてみます。
 よく、「発生件数が急増」といった報道がされるのですが、私自身は、なんか、腑に落ちないので す。というのは、例えば、各都道府県別の暴力件数も発表されているのですが、2005年度、東京は65件、神奈川は501件なんです。児童数で割っ て、発生率を比較したら、神奈川の方が児童数は少ないですからね、東京と比べると、極端に多い発生率になるのではないかと思うんですよね。

 えっ、神奈川の子どもって、東京の子どもよりも、そんなに暴力的なの? それを説明する合理的な理由ってあるのかなあ、と思ってしまうんです。
 神奈川と東京の例だけでなく、全国を見ると、そんな数字ばかり……。だから、調査の仕方に、なんらかの特徴があるのではないかと推測します。
 そうなってくると、この調査の「急増」という「事実」そのものを、括弧にくくって再考したいと思ってしまうわけです。

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「何のために勉強をするの?」

 最近、こんなことをストレートに聞く子どもたちが増えたように思います。「何のために勉強するの?」「勉強をして、何の得になるの?」そんな問いが増えたのではないでしょうか。

 この問いに大人・教師は、「誠実に」応えるべきなのでしょうか? 「勉強すると、こんなにいいことがあるよ」「こんなに得をするよ」「こんなにお金 が儲かるよ」。こんなチープな答えはしない方がいいと思います。でも、子どもの理解できるスキームでは、こんな「わかりやすい」説明しかできません。

 わかりやすい説明はできないにもかかわらず、それでも確信を持って従うべきだと思うことがあります。説明ができないことが、世の中にはあるんです。

 ところで、このような質問は、子どもにかかわらず、よく耳にするようになりました。私の大好きな内田樹さんは、「経済合理性」という言葉でそれを説明しています。経済合理性、等価交換の考え方を徹底すると、勉強をした「見返り」が必ず必要になってくる、というわけです。

 けれど、もちろんこの勉強のことはもちろん、人間にとって大切なことは、合理的に説明ができないものなのです。「なぜ言語を語るのか」「なぜ人を愛するのか」。答えを用意しようとすると、チープなものになってしまいません?

 自分の理解のスキームが及ばないものでも、やる、ということ。そういう等価交換、経済合理性からはずれたことは、どうしたら伝えることができるのでしょうか。とにかく、ねばり強く、子どもたちと関わっていくしかないと思うのです。

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作文が書けない!

 ここ数年、学生さんを教えていて、「論文が書けない」と言われることが多くなってきたように感じます。作文教育(生活綴方教育)、言葉、言語、文学に関心を持っている私としては、指導に力を入れなくちゃと思います。(笑)。やっぱり、作文、言葉の教育は大切だと思いますから。

 2005年12月にOECDのPISA調査の結果が発表されました。2000年は8位だった日本の子どもの「読解リテラシー」は14位にまで低下しています。この調査の結果は、順位にとどまらず、質的に日本の子どもの学力を問うものであります。このことはまた、機会を改めて書きたいと思いますが、本当に深刻なんですよ!

 また、2006年2月に発表された、次期学習指導要領についての中央教育審議会の教育課程部会の審議経過報告でも、「国語力の育成」が重視されています。

 ちょっと余談ですが、この報告については、内田樹さんのブログ「言葉の力」 が非常に面白いと思います。言葉を「道具」としか考えない言語観を批判しています。言葉を畏怖すること、言葉の現実変成力。私は、内田樹さんに大きく影響を受けながら、「詩の言葉の持つ力」という論考を書いたことがありますので、大いに共感したものです。

 さて、本題に戻って。
 では、論文を書くためにどんな学習が大切なのでしょうか。

 まず一番最初にやっておきたいなあと思うことは、たくさん「読む」ことです。

 論文は「書き方」を習えば書けるようになるものではありません。

 私たちは、これまで私たちが聞いてきた、たくさんのフレーズから取捨選択して、切り貼りをして、言葉を発しています。「私」が語っていることの中で、自分自身が考えたこと、全くの「オリジナル」な部分は、ほんのわずかでしかありません(今こうして私が書いていることも、多くは、内田樹や丸山圭三郎、ソシュール、R.バルトの「受け売り」です)。

 けれども、そのたくさんの言葉のストックの中から、何を選ぶのか、という点において、十分な「オリジナリティ」を発揮することができるのです。

 だから、「論文が書けない」と言う方には、まずは、たくさんの文章を読んでほしいと思うのです。話し言葉と書き言葉は、全くの別物です。たくさんおしゃべりができる方でも、「話すように書く」ことは難しいものですから。

 読むものは、何でもいいと思います。

 まずは、読むことから始めてみてはいかがでしょうか。

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有責性と、社会的承認としての労働。

 いろいろな仕事が一段落して、ちょっとだけ休息気分になっています。だってこの間、内田樹さんのブログのチェックもできなかったぐらいなのですから、どれほど私が忙しかったのか、ご想像いただけるでしょう(笑。

 それで、久々に読んだブログなのですが、やっぱり、いいです。こういうときに、どういうわけか、私の状態にフィットした記事があるので、やはり、呼ばれているように感じてしまうのです。

 最新記事の「この夏最後の出稼ぎツアー」 は、本当にいいです。これは、県立高校の校長先生対象の研修会で話されたことのベースが書かれています。内田さんは、教育学の研究者ではありません。で も、私自身は、最もインスパイアされ、かつ、安心して読める教育論の一つなのです。内田さんはOKだと思いますので、転載しながら書いていきましょう。

 まず、内田さんは、「有責性」について書かれています。

原則として教育現場からお声がかかったときには必ず行くようにしている。

メディアで発言する知識人の中に、教育現場の先生たちを応援する立場から発言する人がぜんぜんいないからである。
教育現場の実情をほとんど知らない人たちでも、とりあえず教員の悪口さえ言っていれば、それなりに批評性があるように見える。
そういう風潮がある。
誰だって「自分には学校のことがわかっている」と思えるからである。
でも、いま教育の現場で起きていることは悪いけれど「前代未聞」の事態である。
地殻変動的な変化が起きている。
教育現場を批判している人々を含んだ社会構造全体の「ゆがみ」が学校という特異点において拡大されたしかたで露出しているのである。
だから、自分は「ふつう」だと思っている人が学校の「異常」を批判するというスキームを採用する限り、学校で何が起きているかは彼にはわからない。
社会全体が病んでいるとき、社会のもっとも弱い環である子どもを通じて社会の病はもっとも剥き出しのかたちで露出する。
エレベーターが落下しているときに、「落ちているのは誰だ?」というような詮索をしてもしかたがない。
「全員が落ちている」という現状認識を共有するまでエレベーターの落下を止める方策を論じる機会は到来しない。
そういうものである。
「教育再生会議」というのは、いまにして思えば含蓄のあるネーミングであった。
「再生」という以上、教育は「死んでいた」のである。
この認識はある意味で正しい。
教育現場が死んでいるということは、教育理論も、教育行政も、政府主導の教育改革も、およそこれまで教育について語られてきた言説となされた実践のほとんどは「死んでいた」ということである。
残念ながら、教育再生会議はそこまでは知恵が回らなかった。
というのは、会議に招集された「有識者」たちは全員がこの「教育の死」に加担してきたことを否認したからである。
まずその事実を認め、自分たちがそれまで行ってきた教育実践はこの事態の到来を防ぐことができなかった点について程度の差はあれ有罪であるという「有責感の自覚」から会議はスタートすべきだったと思う。
しかし、彼らはそうする代わりに「実現されなかった正しさ」の代弁者という立場を取った。
それでは「教育の死」が彼ら自身をもまきこんだ巨大な構造的な問題である可能性には思い至ることができない。
人はそのようにして構造的無知の立場を先取してしまう。
ショートスパンの「正しさ」を手に入れる代償に、ロングスパンの「無知」を呼び入れてしまうのである。
人間は不注意から愚鈍になるのではない。
愚鈍さはつねに努力の成果である。

私が教員たちの集まりに可能性を感じるのは、ここが「教育危機を誰か自分以外の誰かのせいにする」余地がない考えうるほとんど唯一の場だからである。
現場の教員の現実認識がメディア知識人よりすぐれているのは、彼らは「何が起きているのか、実は自分たちにはよくわかっていないということをわかっている」点にある。
メディア知識人は教育について「そこで何が起きているのか熟知しているような顔」をしている。
だからきわめて切れ味よく、危機の原因が何であって、それを補正するためには何をすればいいのかをぺらぺらと説明してくれる(もちろん、彼らが言うようなシンプルな政策で教育危機はどうにもならない)。
現場の強みは「教育危機のせいで現に困っている」ということである。
メディア知識人や文教族の政治家は本音を言えば、教育危機で別に困っているわけではない。
むしろ「出番」が増えて、メディアで顔を売り、原稿料を荒稼ぎする絶好の機会である。
学校で何が起きようと、そんなことは彼らにとってはどうでもよいことである。
だが、教員にとって教育危機はダイレクトに血圧が上がり、胃に穴が開き、血尿が出る具体的な問題である。
彼らの血圧を下げ、胃の粘膜にやさしく、腎臓への負担をやわらげるものであり、かつ彼らを説得できるだけ現実的経験に裏付けられたリアルなことばしかこの場では通用しない。
だから、私は教員たちを前にして教育危機の実相とそれへの対処について論じることを一種の「テスト」だと思っているのである。

 私自身、長く身を置いた大学院から離れ、教育実践の場である自分の「学校」を開いてから、いわゆる知識人たちの「有責性」の無さにかちんとくる場面が増えてきていました。

 もちろん、これまでの私も、その一員であったのかもしれません(そうならないように、自分では気を配っていたつもりではありましたが)。でも、自分で全ての責任を持つ、教育と経営の場を持つことで、そういう方々と自らの違いを痛切に感じるようになったのです。

 もちろん、「現場の人間にしかわからない」「経験しないとわからない」と言うつもりはありません。「経験しないとわからない」ということで、コミュニケーションの回路を断ちたくはないものですから。

 ただ、私自身に関していうと、「自ら責任を引き受ける」という立場に身を置くことによって、精神的な衛生を得られたように感じるのです。

 もちろん、大変なことも増えました。

 けれど、他者の責任を引き受けることの心地よさというものも、その一方では感じているのです。

 さて、内田樹さんの講演の本題について。以下のように記事は続いています。



本日の講演は「なぜ若者は労働のモチベーションを維持できないのか?」

これに関しては先日『文藝春秋special』という媒体に文章を書いたので、これをマクラにして90分間話す。
参考のために文春に寄稿したものを採録しておこう。もう出版されてだいぶ経つからよろしいであろう。

「やりがいのある仕事」を求めて短期間に離職・転職を繰り返す若者が増えている。ニートや非正規雇用が問題になるときにも、「やりがい」という言葉 が繰り返し口にされる。「若者にもっと『やりがいのある仕事』を制度的に提供できれば、問題は解決する」という言い方をするメディア知識人も少なくない。
だが、「やりがいのある仕事」とは何のことなのか。
この語の語義について、国民的合意は存在するのだろうか。私は違うと思う。そして、同一語を別の意味に使っていることが、事態を混乱させているのではないかと思っている。
ある年代から上にとって、「やりがいのある仕事」というのは、「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味している。おのれ労苦の「受益者」がどこ かにおり、その笑顔や感謝を想像することが労働のモチベーションを担保する。それが「やりがい」という語の意味だったはずである。
だが、この定義は若い世代にはもう適用できない。というのは、今ではどうやら個人の努力がもたらす利得を「私ひとり」が排他的に占有できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と呼ぶ習慣が定着しているようだからである。
「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。
受験勉強では努力と成果の間に「正の相関」があり、個人的努力の成果は本人が100%占有する。一生懸命勉強をして入試で高得点を取ったので、あまり勉強 していなかった隣席のヤマダくんもその「余沢」に浴していっしょに合格できた、というようなことは受験勉強の場面では絶対に起こらない。
けれども、私たちの日々の仕事の現場ではむしろそちらの方が常態なのである。仕事のほとんどは集団の営為であり、利益は仲間の間で分配され、リスクはヘッジされる。人間的労働は集団的に行われることで効率を高め、危機を回避するメカニズムだからである。
受験勉強は将来の労働者を類別・序列化するためのシステムではあるが、それ自体は労働ではない。それを同一視して、受験勉強をする気分で労働の現場に踏み 込んでくる若者は仰天してしまうのである。どうして、ここでは自分の努力の成果が自分に専一的にリターンされないのか?受験勉強的「成果主義」になじんだ 子どもは、自分の努力が固有名での達成としてはカウントされず、集団で(それもろくな働きをしていない人間も含めて)分配しなければならないという「不条 理」が理解できない。
しかし、若者たちの多くはアルバイトをしているではないか、というご意見があるだろう。あれは労働ではないのか、と。
残念ながら「バイト」は労働の条件を備えていない。というのは、あれはモジュール化・マニュアル化された労働の「断片」に過ぎず、アルバイト労働は断片化 されることで互換性を確保している。それゆえ、バイト労働者には労働契約に規定された以外の労働をすることが要求されない。だから、彼らは「自分の仕事」 の境界線の外に生じたミスやトラブルを「自分の仕事」として引き受ける習慣がない。
しかし、ビジネスの現場では、ミスはしばしば「誰の領域でもないグレーゾーン」に発生する。「自分の仕事」ではないのだけれど、とりあえず片付けておく か・・・という「よけいなお節介」によってシステムはしばしば致命的なクラッシュを回避している。でも、彼がシステムを救ったという事実は前景化しない (「何も起きなかった」というのが彼の達成したことだからである)。多大の貢献をしながら、成果としては評価されない。この事実を多くの若者は不合理だと 感じる。
受験勉強とバイトという二種類の「ワーク」を通じて労働というものを理解してきた子どもたちには「成人の労働」の意味がよくわからない。
成人の労働の本質は、個人の努力が集団の達成に読み替えられる変換のうちに存する。自分の努力の成果が、できるだけ多くの他者に利益として分配されること を求めるような「特異なメンタリティ」によって成人の労働は動機づけられている。それが納得できないという人は成人の労働には向かない。事実、多くの若者 たちが「三年で辞める」のはそのせいである。
「やりがい」を求めて離職転職する若者たちはの多くは個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占できる仕事に就こうとする。たしかに才能があれば、起業家や 投資家や作家やアーティストや医師や弁護士になれるかもしれない。けれども、「個人的努力の成果を占有できる」ということは、裏から言えば「リスクを全部 一人で負わなければならない」ということである。どれほどスマートでタフな人間も天災や政変や疫病のようなリスク・ファクターのすべてを回避することはで きない。利益を分配する代わりにリスクをヘッジしてくれる集団への帰属を拒否する人間は一回の失敗ですべてを失う可能性を勘定に入れておいた方がいい。
私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ 多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。 この代価は決して高いものだと私には思われない。

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課題文が提示された小論文について

 今日は、学生さんの小論文をずっと読んでいました。
 課題文が提示されて、それを読んだ上で、論述する、というタイプの問題です。意外と学生さん、苦戦されています。
 今回の出題文は、非常に教育的なテキストでした。ある意味で、非の打ち所の無い、全部が共感できるようなテキストだったので、書きづらかったのかもしれません。
 でもたとえそうであったとしても、やはり、課題文が提示されている出題の場合、出題文に言及しながら自らの見解を述べてほしいと思います。論文の中で、出題のテーマが独自に展開されていたとして、出題文との関わりが読み取れないものでは、出題の意図が理解されていないと判断されかねません。また、出題文をなぞるだけの解答も避けてほしいと思います。出題文の筆者の主張と、自分自身の主張を区分し、両者の関係について自覚しながら、解答を作成してほしいと思います。
 だから、課題文が提示されている小論文の採点基準は、はっきりしているんですよ。

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「勉強って役に立つの?」

 子どもたち(に限るわけでもありませんが)を教えていると、よくこう聞かれます。
 「こんな数学、役に立つの?」「俺、英語なんて使わないし」等々。
 確かに、子どもたちが言うことも、一見、あたっているように思いますよね。だって、私だって、日常生活する上では、微分積分なんて、使いませんから!
 でも、こういう学習をする理由って、子どもたちにわかるように説明することができるのでしょうか?
 勉強をすると、「こんなにいいことがある」「こんなに就職に有利」、そんなチープな資本主義的な枠組みの中でしか、子どもたちに説明することができないのではないでしょうか。というのは、彼らの持っている、理解の枠組みは、現代社会で最も支配的な資本主義、消費社会のスキームですから。子どもほど、ダイレクトに時代を感じ取っている存在はありません。
 人間が行っていることは、非常にわかりやすいことだけではありません。子どもには判らないことが、世の中にはあるのだと思います。
 私自身、そのようなかつての自分のスキームでは理解できないことがあるということを、年齢を重ねる上で痛感する場面が多くなりました。まだまだ、一応(!)若いので、もちろんこれからも、「今」のスキームを壊し、構築していくことの繰り返しだと思います。だからこそ、今の自分のスキームで、「役に立つんですか?」と問うことのナンセンスさを感じてしまうのです。
 「いいからやりなさい」。こう子どもに言うことは、権威的な、悪しき教師像として語られていたように思います。けれど、人間の学びが、自分のスキームを超えた「他者」なるものに出会うということである以上、「いいからやりなさい」は、必然的な構造であるように思うのです。
 教師の側が、それだけの覚悟をもって子どもたちに向かうときには、子どもたちは、その「真実」がわかるようです。こちらの気迫というのは、不思議なことに伝わるものです。
数十人の学生さんの前で講義をしていても、私が、一種のルーティンとして知識を授与するような話の場面と、たとえ余談ではあっても、あるいは、学生さんにはわからないだろうなあと思うような内容であっても、気迫のある内容の場合には、反応が違うものです。そして、後者の話を面白い、と感じている学生さんは、なぜか、伸びるように感じます。
 それはどうしてでしょうか。その理由の一つの説明の物語については、またの機会に書きたいと思います。

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「身を委ねる」こと

 学生さんの指導に関わっていて、自分の今、持っているスキームで学ぶことの必要か否かを裁定する学生さんよりも、とりあえず私の話に「乗る」ことのできる学生さんの方がどうも伸びるように、経験的には感じています。試験に合格率も、圧倒的にそういう学生さんの方が高いように感じます。

 どうして、私の話に「乗る」ことのできた学生さんの方が、伸びるのでしょうか? 私の講義がそれほど効果的だから? ははは、そんなことは口が裂けても言えません。

 私の話に「乗る」ことのできる学生さんというのは、話の内容がわかろうがわかるまいが、自分の身を相手に委ね、新しいスキームを取り入れることができるのだと思います。自分のスキームが強固な方の場合は、自分のスキームから、「これは必要無い」と判断していきますからね。だから、そう簡単には、人の話には「乗る」ことができないんです。
 でも、「乗る」ことのできる人は、とりあえず、自分の考えは括弧に入れて、すなわち、自らのスキームを一旦手放して、人の話を聴ける人なのだと思います。

 そういう構えのある人は、他のあらゆる場面でも、そのように自らのスキームを手放して新しいスキームを、異なる度量衡の尺度に触れることができる人なのだと思います。
 そういう人は、自分のスキームを超えたものを吸収することができる……だから、伸びるのだと思います。

 本当に不思議なもので、どういうわけか、これでかなりはっきり、伸びる人とそうでない人を見分けることができるのです。

 でもまあ、人には相性というものがありますからね。私に身を委ねることができない方でも、他にきっと、そういうことができる人がいるはずです。

 私でなくても、もちろんかまいません。どこかでそういう「他者」を見つけて、自分のスキームを手放す体験をしてほしいと思うものです。

 さて、こういったことを延々と書いているのは、自らの深い反省から。

 私自身は、自らのスキームを確固として生きるよう、再教育された、という悲しみがあります。今だったら思うんですよ、そんな教育は間違っている、と。「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)は、「百害あって一利なし」です。それよりも、こだわりもプライドもなくてして、相手に身を委ねることができた方が、ずっとずっと、成長することができると思うんですよ。

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理想の単一の教育論なんて。

 

内田樹さんのブログを読んでいたら、笑うに笑えない記事がありました。ちょっと古い記事なんですが、全面的に賛成なので、その一部をご紹介したいと思います。

「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、 「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられ るようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。
安倍内閣は仄聞するところでは教育改革にたいへん熱心であるらしい。
教 育基本法を改定し、教師の資格制度を整備し、学習指導要領を緻密化し、教育委員会による教師たちの統制と支配を強化する・・・という施策は「ありうべきた こ焼き」を全国のたこ焼き屋に作らせるために、「たこ焼き基本法」を整備し、「たこ焼き士」認定制度を作り、「たこ焼き作成要領」を法整備し、「たこ焼き 監視官」を全国に網羅的に配備して、「青のりの散布量が標準値よりも少ない」たこ焼き屋を摘発するのとまったく同じことである。
申し上げるけれど、そんなことに行政的なリソースを割くのは、税金をドブに棄てることに等しいであろう。
それによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性は限りなくゼロに近い(「ゼロである」と言い切れないのは、教育改革のあまりのばかばかしさに全国民が気づいて「もうこんなのやめようよ」と言い出す方向に棹さす可能性を否定できないからであるが)。
私は「教育はいかにあるべきかに」ついて首相官邸にいるどの政治家官僚よりも長い時間考えてきている。
これについては自信がある。
その私が言うのだから、信用して欲しい。
日本のたこ焼きのレベルを上げようと思ったら、たこ焼き屋に創意工夫をするフリーハンドを与えることが最良の方法である。
教育も同じである。
政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。
あなたがたが学校のことを忘れてくれたら、それだけで日本の教育はめざましい復活を遂げるであろう。
それは私がお約束する。

という話なのだが、今日、学生さんたちとこの文章を読んで、笑うに笑えない話だということを始めて知った。

食品関係の会社に勤めていた学生さんが、まさにこの「たこ焼き」と同じように、食品を作っていたという。機械を使って加工食品を作るためには、マ ニュアル作成が重要。その食品を作るときに、まったくノウハウが無いアルバイトのような人たちでも、一定の同じ「味」のものが作れるように、まさに「たこ 焼き基本法」を作成しているそうだ。

なので内田さんの「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに」というのは、現実とは違うかも、と言わざるを得ないのかもしれませんが(笑)。

まあそれはともかく、単一の「理想の単一のたこ焼き工程」があったとしても、人間にそれが当てはまるはずは決してありません。

子どもが違い、教師が違えば、同じ教育方法でも効果は全く異なります。私自身も、相手によって常に教材を変え、語りの内容を変え、語り方を変えています。同じ内容・語りでも、まったく反応が違うためにとまどうことも少なくありません。

よく考えれば、そんなことって当然のことですよね。私たちは日常的に、相手の反応を見ながら、自らの表現方法を変え、少しでもコミュニケーションが進むように努力するものではありませんか。

それからもう一つ。

こうして教職学院を開いて自らが教育実践を行う場面が多くなると、調査者として教育現場に入ることの意味について考えさせられます。私自身、「研究」と称して現場に入り、ペーパーをまとめ、メディア(大小の違いはありますが)でも発言をしてきました。

どこかで、「子どもバッシング」に加担したなあと思うような部分もあり、反省の気持ちをいだかないわけでもありません。

こうして実践の場に身を置くようになり、「学校のことは忘れて欲しい」ということに強く共感しています。

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